デリダの「声と現象」(1967)は、フッサールの「論理学研究」の第1部「表現と意味」の検討であり、「記号」signeには「表現」Ausdruckと「指標」Anzeichenの二つの概念が含まれている、というフッサールの指摘から出発している。
フッサールは言語記号における外的実在を指示する指標を取り除いて、意識的・志向的な表現を取り出そうとするが、それは「言おうとする」veulent-dire記号となる。その際指標作用を取り除くために、何かを示すことを含んでしまう他人への伝達を遮断し、「孤独な心的生活」における「独白」を考える。
「例えば誰かが自分自身に対して、お前はひどい振る舞いをした、もうそんなふうに振る舞い続けることはできない、と言うような場合である。」そこでは実在的な語を使わず表象された語だけを使うのであって、もはや語という経験的な出来事は必要でなく、語の想像作用しか実在せず、それは体験として絶対的に確実なものであり、自己へと現前するものであり、現象学的還元の一種である、とデリダは言っている。
また、これと関連してデリダはソシュールの一節を引いている。「我々の言う聴覚映像の心的な性格は我々自身の言語活動を観察する時にはっきり現れる。我々は唇も舌も動かさずに、自分自身に語りかけたり、心の中で一篇の詩を暗唱することができるのである。」デリダはソシュールに言及して、シニフィアンと「表現」、シニフィエと「意味」(Bedeutung)という等値性を想定することができるかもしれないと言っている。しかし「ソシュールは現象学的な配慮をしていないために聴覚映像を内的であることがその独自性であるようなある実在にしている」とも言っているがこれは言い過ぎであろう。
この本では声の見せかけのイデア性と形而上学の関連などが論じられるが、現象学全体のさまざまの問題が提起されており、上述の部分だけでも、イデア性、主観における内部と外部、人称の機能など様々な問題が提起される。精神医学の領域に引き寄せて言えば、意志的でない独語、幻聴、外部としての内部へのその位置づけなどの問題が考えられる。昨年の研究会創造性と書き換えでも一人でしゃべることが論じられた。