2012年3月31日土曜日

キネステーゼ

スポーツ運動学という分野では、ある運動ができない生徒に運動指導をするとき、規範となる運動を客観的に説明するのではなくて、できない生徒の動きを観察しそれを指導者が自らの運動感覚(キネステーゼ)として捉え(潜勢自己運動)、目標とする運動の運動感覚に近づけるような類似の運動(キネステーゼアナロゴン)を練習させたりする、ということである。(運動指導におけるキネステーゼ理解の構造)<佐藤、2008>

このような事は認知運動療法というリハビリテーションの分野でも行われている。外から見た身体の運動ではなく、運動と関連した身体感覚の認知が疾病や傷害によって変質しているという発想で、「する」よりも「感じる」リハビリテーションを行うというものである。(認知神経リハビリテーション学会)

ここには精神分析的に興味深い点が2つある。一つは運動のイデア性と感覚性、その視像との関係における空間性であり、もう一つは運動の伝達、伝承における言語以外の「理念的対象性」(フッサールが「幾何学の起源」で述べたような)である。

できない生徒の運動感覚に指導者が近づこうとする方法としてキネステーゼ解体という方法が述べられているが、これは鏡像段階以前への遡行であると考えられる。「運動をうまく行っている状態から,ある特定のキネステーゼが機能していない状況を意図的に作りだし,そのキネステーゼの働きを意識に上らせることを目的とした解体作業を行うのである。」(佐藤)この際一つの方法として目を閉じて運動を行うということが述べられている。

鏡像段階においては自己の身体像を介して自己の身体感覚がまとめあげられるが、鏡に映っている母親や周囲の事物との関連もそこには寄与している。それは幾重にも重ねられた「ああそうか体験」(Aha Erlebnis)であるが、視像による錯覚でもあり、それによってふるい落とされてしまうものがあるのである。

認知運動療法においても視覚を遮断するという方法が行われている。
「人間には視覚や体性感覚からつくられる空間だけではなく、聴覚や運動感覚からつくられる空間もある、普通、人間はそういったものを全部まとめてグローバルな意味での空間という感覚を自分の中につくりあげているのです。ですから空間はある意味で創発特性であると言えます。たとえば視覚空間と体性感覚空間が足されて、いわば1+1が2になるのではなくて、身体と外界との間でいろいろなものが創発されていくことを、私たちは空間として認識していると言えるのです。」(フランカ・パンテ)(Ecco! )

しかし最終的には目標とする運動(技)、あるいは一つに収斂するような構成(リハビリテーションゴール或いはセラピストが仮説としてたてる運動と感覚の構成)というものがあり,それは何らかの形を持っているのではないだろうか。それは形相(イデア)なのだろうか。ソシュールは聴覚映像のイデア性の例として、声に出さずに詩を暗誦するという場合を挙げているが、その時口には力が入っているかもしれない。カントも空間を考えるとき、心の中で線を引いてみなければならないと言っているし、これは行為であると言っている。(ソシュールはもちろん意味と聴覚映像は切り離せないと言っているが)音のまとまりとしての聴覚映像とか、幾何学の対象としての線という概念は、技としての運動と同様の、理念的統一性を持っている。

ここで技の伝承とか学の継承という問題が出てくるが、この統一体は共有することができるのだろうか?キネステーゼを理解する方法として精神医学における「了解」の概念が取り上げられ、運動感覚交信という概念が提示されているが、そこでは言語はどのように作用するのだろうか?記述的でない言語,「ひゅるひゅるぱすん」などの感覚的擬態語は、客観的科学的記述と称する言語と異なる作用をすることができるのだろうか?フッサールは幾何学的対象には言語とは違う理念的対象性があると言っているが、それはそれだけでは「伝達」されない、あるいは共同の生活世界を構成しないであろう。

2012年3月5日月曜日

精神と体操

精神医学という言葉が大学医学部の講座名に使われなくなり、認知とか脳神経とか情報処理とかの言葉が入るようになって久しい。たとえそこに社会とか発達という言葉が入っても、個物としての人間がどのように機能するかという視点だけでは、サリヴァンが言ったような"精神医学は対人関係の学である"というような側面は見えてこない。
処理機能という観点を押し進めていくと、精神の働きとは体の動きのようなものと見なされる。体の動きがコントロールできるように、精神の働きもコントロールできるので、それを治療に結びつけようということで、認知行動療法などが考案される。つまり精神の体操である。gymnastique という言葉には、体育、体操の他に、精神的、知的訓練という意味があり、コントロールする側の主意的な行為に力点があり、対象となっているのは、精神あるいは身体としての自己である。しかしそこで精神とされている方の物は、言葉で捉えられた物を他の言葉で置き換えているにすぎない。

一方、体操においては身体という物質性があるように見えるが、はたしてそれが体操の本質なのだろうか?スポ-ツ運動学という分野では、動きのコツとか勘とか言ったものを捉えて体操指導に生かすために、キネステーゼという概念が提唱されている。これはフッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」において述べたものを発展させたものである。運動を実践している者の主観においては、いわゆるスポーツ科学が捉える客観的な身体ではなく、意識が捉える運動感覚が重要であるということである。

フッサールはもちろんカントの「純粋理性批判」を意識しており、カントにはガリレオ、デカルト以来の自然科学的な「エゴ」が残っていて、先験的感性論における直観の形式としての時間と空間は、自然科学的客観主義に汚染されている、と批判したいようだ。しかしそこで持ち出される「生活世界」という言葉は素朴な認識と誤解され易いように思われ、「ego」の手前の「Ich」という言い方の方が本質をついているように思われる。

精神分析的にはこのエゴは視像であり、科学的合理的デイスクールの基盤であって、「我あり」と思っている者(Ich)こそが、無意識の主体、棒を引かれた主体なのである。そのような主体は一種の空間、場所(トポス)なのであって、そこにおいて主観と対象が構成される。精神分析が哲学と決定的に異なるのは、ここに認識論的にはたどりつけない言語の役割を強調することである。カントの形象的総合(synthsis speciosa)はラカン的に言えば統一性 Einheit であり、言語の始まりとなる単一性 Einzigkeit とは異なっている。注)

2011年12月24日土曜日

研究会

2010年の最初の研究会では、我々は姉歯先生の遺されたテキスト"創造性と書き換え"から始めて、フロイトのテキスト"機知、その無意識との関係"を再び見いだした。フロイトは言葉の響きと意味のどちらが(聴覚表象それ自体とその意味のどちらが)面白さの源であろうか、と問うているが、同時にこうも言っている。"良い機知というのは言わば全体的に満足の印象を与えるので、気の効いた言葉の形から来る快感と素晴らしい思考内容から生じる快感とを区別することは直ぐには出来ない。"
ラカンはクッションの綴じ目の図式を、無意識の形成物のセミネールにおいて練り上げ、機知を大文字の他者へのメッセージとして記述している。彼は意味の実在という形而上学を避けたいようである。彼は隠喩に意味の創造として価値をおき、換喩をシニフィアンの連鎖として定義している。彼によると機知という現象は大文字の他者の承認によって成就される。

フロイトやラカンが引用する多くの例は文学のテキスト、特に会話の場面から来ている。しかし例えばヒルシュヒアサントを作り出したハイネのように、著者は誰に対して書いているのか?言葉の響きについてはより意識的な産出である詩の場合、詩人は誰に対して差し向けているのか?我々はヴァンクレール氏に、詩の形態学とその意味との関係について意見を求めた。残念なことに3月11日の大災害により氏の話を聞く機会は奪われたが、氏は"現代詩における形と意味"というテキストを、今回の研究会のために提供して下さった。

このテキストの中では、詩の作業において、言葉自身が喋り始めるという状況、及び外部の内部への出現とその際の特異な感覚、に我々は注目した。そこには機知と同様の感覚があるように思われる。また著者は大文字の他者に向けているように思われるが、大文字の他者の承認は不確かである。この行為を倒錯的ないし精神病的とみなすべきだろうか?
芸術の場合、大文字の他者の承認は芸術についてのデイスクールによって実現されるのではないだろうか。しかし、機知と同様に、そこには規準としてのある真理があるわけではなく、ただ証人としての真理があるだけなのである。

疾病性と主体性

 今回の研究会では、神経症性と精神病性の抑鬱が話題となった。

精神分析では、受診者を精神病か神経症か鑑別しようと努力する。それは分析が進むと患者が、"分析家の声が聞こえる"とか"自分を誘惑しようとしている"とか言い出すことを避ける、つまり精神病が発症しないようにしようとしてである、とされている。
 古典的精神医学では、正常と異常の区別、病的であるか否か、つまり疾病性が問題になる。近代の精神医学の誕生と発展には、社会防衛と隔離という要素、及び矯正という要素が背景にあるということはフーコーも指摘している。つまり精神病者には欠陥があり、事理弁別能力が無く、社会的責任能力がないので、適切に治療し処遇して社会に適合させる、ということで、隔離と矯正が一体となって精神病院が発展したのであった。

 文献的に最も古い分裂病の記録とされているハスラムの"狂気の記述"は、革命下のフランスでスパイとして活動したのではないかと疑われ、その後結局狂人であるとしてイギリスに送り返され施設収容された、紅茶商人マシューという人物について、その家族が不当な施設収容であるとして解放を請求した訴訟において、これが狂人であり収容が妥当であることを示すための記述であった。この時代には隔離という要素が主になっていた。

 このように精神病院、あるいはそれ以前の狂人園の中に放り込まれていた雑多な集団の中から、プロセスのある病気としての疾患単位をまとめあげていったのがクレペリンのような人達であった。20世紀の初頭にそのような精神医学体系が固まってから、その疾病性を再び検討しようという動きが高まり、精神病理学が隆盛を迎える。その中で、疾病性の手前にあるもの、つまり正常な側にあるものについての概念として、ヤスパースの了解関連とシュナイダーの異常体験反応には大きな意義があった。彼らからすると、外因性のものを除く、本来の精神疾患とは分裂病と躁鬱病であるということになろう。

経済的な観点から精神医療政策が変更されて、精神病床の削減、外来診療の充実が謳われるようになって久しい。その中で、隔離収容の前提となる異常性、つまり疾病性とされていたものが重要視されなくなる。精神鑑定においても、精神医学的観点に司法的観点や世論が干渉するし、根拠の曖昧な生物学的知見が乱用されたりする。しかし病院が無くなって隔離という要素が減っても、精神医療には矯正と適合という要素がつきまとう。全ての受診者には訴えがあり困っているのだから、それは少しは異常で治療の必要がある、ということになれば患者数は莫大なものとなり、精神医療のニーズは高まっているということになる。生活苦、病苦、痴情のもつれ等の訴えに対して"あなたは病気じゃないから病院へ来なくても大丈夫です"と言うことがある精神科医はどれくらいいるだろうか。病気という概念が、疾病とか疾患ではなく、不具合とか故障と考えられている場合が多くなってくる。人間の、体はもちろん精神も、マニュアル化されたフローチャートに従って修理できるとされる。患者となった側では苦しみが取れない、自分が望むようにならないのは、全て治療が悪いせいだということになる。そこで"お薬を足しましょう"とは言わない精神科医はどれくらいいるだろうか。

こうした考えは、全てを保証してくれるはずの大文字の他者との関係についての空想から生じる。古典的な神経症的な医者患者関係では、全知全能の主人として医者が祭り上げられたり、それに踊らされたり、あてが外れて非難されたりするというのはありふれたことであった。疾病性という医学的判断が曖昧になると、医者を患者が知らない事を知っている主体と想定することは難しくなり、医者も患者も同様にアクセスできるネットやメディア上の切れ切れの知識が権威あるものになる。この場合、大文字の他者は承認してくれる他者ではなく、ただ命令し監視する者、パノプテイコンの塔の中に居ると想定されている者であり、実在の誰かに重ね合わせることができない。医者も患者も自分はマニュアルに従っているのだから治らないのはあなたが悪いと言えるのである。

 こうした混乱を避けるためには、疾病性という概念を練り直さなければならないが、それはもう既に精神分析で行われている区別、つまり精神病と神経症という区別に基づけば十分なのである。すなわち、疾病性があるのは精神病でありそれは治癒しない。神経症には疾病性は無く、医学的な治癒像として決まったものがあるわけではない。ラカンに倣って言えば、この疾病性とは父の名の排除であるということになる。だから精神病者には、まねをするかふりをするか以外の、責任能力を問えるような主体性が無いと言えるのであり、神経症者は、自分がそう思うように、自分で治ろうとすることしかできないのである。

2011年10月7日金曜日

シニフィアンとエクリチュール

 リチュラテール(1971)の中でラカンはおそらくデリダを意識して言っている。「草稿の中でフロイトが言っている刺激を受容した道を掘るというモデルを容認できると私が思ったとしても、だからといってエクリチュールの比喩としてそれを捉えようとは私は思わないでしょう。マジックノートには申し訳ないが、エクリチュールは印象(impression)ではない。(.....)そこで、結果としての文字を生み出すと私には思われるもの、話す者がそこに住まう、と私が言っているような言語の核心を示そうと思う。」
 そして最終的に「エクリチュールがその言語を加工している日本語」を取り上げる。日本語における特有のエクリチュールとラカンが考えているのは、それに音読みと訓読みと言う二つの読み方があるということである。音読みは文字の読みで訓読みは日本語で言おうとすることを言う読み方であるとしている。「漢字は文字であるということで、シニフィエという川を流れているシニフィアンという漂流物であるように見てしまうのは滑稽だろう。そのような文字こそが隠喩の法則に従ってシニフィアンの支えとなる。デイスクールはこの文字を見かけ(semblant)の網の目の中に捉える。こうして文字は指向対象(référent)に格上げされ、これが主体の位置づけを変える。」

( この部分は同じ内容の1971年5月12日のセミネールと異なっている。セミネールでは「それで皆さん間違えてしまうかもしれません。つまり、漢字は文字であるということで、シニフィエという川の中を流れているシニフィアンという漂流物であると私が言おうとしているのだろうと、皆さん思ってしまうでしょう。ここでシニフィアンの支えとなっているのは、シーニュではなく文字なのです。これまで私が言語の本質をなすと言ってきた隠喩の法則、何であれこれに従うもの以外のものなのです。言語が、何でも、だからエクリチュールそのものも、シニフィアンの網の目の中に捉えるというのは、言語つまりデイスクールのある所とは、いつも別のところなのです。そこにおいてのみ文字は指向対象の機能にまで格上げされ、これが主体の位置づけを変えるのです。」 )

 こうして日本人の主体の位置づけの特徴として、「基本的同一化が、単一特徴だけでなく、星をちりばめた天に基づいており、そのために「君」(tu)(2人称親称)によってしか支えられない。つまりあらゆる文法形態の極めて細かい文面が、そのシニフィエが意味している儀礼的な関係によって変化させられるような、そういう文法形態によってしか支えられない。」と言っている。
 
 デリダはフロイトの心的装置のモデルを、エクリチュールの光景として捉えたのだったが、デリダが痕跡と言っているものは、フロイト-ラカンの文脈では事物表象、あるいはシニフィアンなのではないだろうか。それでラカンも「フリースへの手紙52における Wahrnehmungszeichen 知覚表徴 は、まだ当時ソシュールが言っていなかったシニフィアンの概念に近い」と言っているのではないだろうか。つまり、デリダにおけるエクリチュールは意味と意味作用の枠で考えられており、日本語における文字によっては、意味作用の効果、特に意味作用が他者に向かって主体を生じる時の効果が、独特であるといったことは説明できないだろう。そしてデリダ自身が言っている「現象学は、間主観性の構築と時間性の運動の特異な記述によって、内部から抗議される、あるいは悩まされているように思われる。」という事態に再びはまり込むように思われる。
 

2011年9月13日火曜日

我無い、か、我思わない

<我思う故に我あり>というデカルトのコギトをラカンがもじったものである。全てを疑っている間はまだ確実なものは現れていないのであって、そこではたと気づいて、考えている私は確実であるということになるのであり、つまり「我が無いところで私は考える、故に、私が考えないところで我あり」とラカンは言っている。(無意識における文字の審級1957)
別のところでラカンはこれを「アクテイングアウト」(アクトは演じるという意味) acting-out と「行動への移行」(リストカット、飛び降りなど) passage à act の区別に結び付けているが、シニフィアンの意味作用という点からは「ソシュールのアルゴリズムであるシニフィアンとシニフィエは同一の平面には無いが、どこにもないその共通な軸に自分がおかれているのではないか、と人間は思い込んでしまうのである。」ともラカンは言っている。

「私が<私>と言うとき、たとえ孤独な言述の中であっても、いつものようにそこに言述の対象が不在だという可能性、ここでは私自身が不在だという可能性が常に伴うという以外の仕方で、私は私の言表に意味を与えることができるだろうか。私が私自身に「私はある」と言うとき、この表現はフッサールによるあらゆる表現と同様に、対象が、直観的な現前性が、つまりここでは私自身が不在の時にも理解できるのでなければ、言述の資格はない。そもそもそんなふうにしてエルゴスムが哲学の伝統の中に導入され、超越論的自我に関する言説が可能になるのである。」(声と現象1967)    
このように述べるデリダも、同様の観点に立っていると言える。デリダが「差延」として言っているのは、超越論的主観性のもとにあるこのずれであり、記号の観点から言うと、記号がイデア化される時の時間的なずれである。

イデアがあるということ、それが形而上学と現象学の立場であるが、精神分析では「シニフィアンの背後にシニフィエのイデアがある」とは考えない。イデア化は精神分析における意味作用ではない。精神分析ではシニフィアンが換喩の運動によって置き換えられていき、意味作用に対して抵抗を示す。「f(S....S')S=S(―)s」創造という意味作用の効果がこの置き換えの中に起こると、シニフィアンがシニフィエへと飛び越えられ、この状況が主体の位置と混同される。「f(S'/S)S=S(+)s」

しかし記号の観点からイデア化について考えるとき、必ずしも意味のことだけが問題なのではない。数学的対象、幾何学的対象などが一方にあり、フッサールの「形式論理学と超越論的論理学」に言及してデリダが挙げている、意味を備えたとされる「円は四角である」に対する「アブラカダブラ」のような、無意味とされる、詩的言語あるいは非言述的な意味作用の諸形式(音楽、非文学的芸術一般)が一方にある。そこでも物自体からイデアへの移行があるように思われる。

2011年9月4日日曜日

音楽と言語(2)

 ゲオルギアーデスは、カントの純粋時間概念と古典派音楽の純粋拍節概念は西洋精神史の中で平衡関係にある2つの転回点とみなしてさしつかえないだろう、と言っている。「古典音楽の最も優れた特徴は「現在的な行為性」ということであり、それに伴って音楽の非連続性、すなわち楽曲がそれぞれ独立した多くの小さい運動の組み合わせからできているということであった。したがってここで必然的に次のような問いが生じてくる。この絶えざる変化にもかかわらず全体を一つの統一としているものは何なのか。変化するもの、それはリズムや音の実際の姿であり、変化しないもの、それは韻律的な重点配分、すなわち拍節である。」「古典派の精神的な業績は、それまで漠然と一体をなすものと考えられてきたリズム的・個別的音的形態と韻律的重点配分を、2つの独立した別々に取り扱うべき量に区分したことにあると言えるだろう。」「ウィーン古典派は時間の区切りと時間の充填を区別するという傾向からその最終的な区別を引き出したのである。」「拍節とは精神の中でのみ統一を樹立する関連系にすぎない。しかしこのことは、手仕事と言われるもののうちにおいて可能な限りの究極的な抽象を、すなわち単なる(カント的な意味における)形式になりつくし、一切の物質的素材を脱却しつくした一つの因子を操作するという意味での抽象を意味する。」

 純粋理性批判においてカントは、「ある一定の長さを持つ時間は、いずれもその根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能」であり「全体的な時間表象は直接的な直観としてこれらの部分的表象の根底に存しなければならない」と言っているが、しかし全体を統一する基準としての時間と言うことを言っているのではない。
 カントは「時間はそれだけで存立する何かあるものではない。また客観的規定として物に付属しているような何かあるものでもないもし第一の場合が成り立つとすれば、時間は現実の対象がなくなっても現実に存在することになろう。またもし第二の場合が成り立つとすれば、時間は物そのものに付属する規定あるいは秩序であって、対象を成立せしめる条件として対象よりも前に存在しえないし、また総合的判断によってア・プリオリに認識され直観されることはできないであろう。」とか「現象(感性的直観の対象)としての一切の物は時間のうちにある」とか「時間に経験的実在性を認めながら、絶対的先験的実在性を拒むという私の理論」等と言っている。
 だから均質で均等に割り振られるような時間と言うイメージではなくて、そのようなものが現れる背景のことを言っていると考えられる。
 ここから逆に古典派の拍節概念は一つのリズムパターンを固定してしまい、幾つかのリズムパターンを重ね合わせるリズムポリフォニーの可能性を制限してしまっている、とも言える。

 カントは「時間は我々の内的状態における種々な表象の関係を規定するものである。この内的直観は形態を与えるものではない、それだから我々はこの不足を類推によって補おうとして、時間の継続を無限に進行する直線によって表象する。この空間化の比喩は、声とエクリチュールあるいは音楽と楽譜等の関係のさまざまな問題を提起する。書かれたものは前に遡ることができる。
 精神分析では、無意識に書き込まれたものが後から読まれて、前の表象が後の表象の後として見出される。「科学的心理学草稿」から「夢判断」を経て「マジックノートについての覚書」にいたるフロイトの心的装置のモデルを、エクリチュールのモデルとしてデリダは考察している。(フロイトとエクリチュールの光景)