2010年の最初の研究会では、我々は姉歯先生の遺されたテキスト"創造性と書き換え"から始めて、フロイトのテキスト"機知、その無意識との関係"を再び見いだした。フロイトは言葉の響きと意味のどちらが(聴覚表象それ自体とその意味のどちらが)面白さの源であろうか、と問うているが、同時にこうも言っている。"良い機知というのは言わば全体的に満足の印象を与えるので、気の効いた言葉の形から来る快感と素晴らしい思考内容から生じる快感とを区別することは直ぐには出来ない。"
ラカンはクッションの綴じ目の図式を、無意識の形成物のセミネールにおいて練り上げ、機知を大文字の他者へのメッセージとして記述している。彼は意味の実在という形而上学を避けたいようである。彼は隠喩に意味の創造として価値をおき、換喩をシニフィアンの連鎖として定義している。彼によると機知という現象は大文字の他者の承認によって成就される。
フロイトやラカンが引用する多くの例は文学のテキスト、特に会話の場面から来ている。しかし例えばヒルシュヒアサントを作り出したハイネのように、著者は誰に対して書いているのか?言葉の響きについてはより意識的な産出である詩の場合、詩人は誰に対して差し向けているのか?我々はヴァンクレール氏に、詩の形態学とその意味との関係について意見を求めた。残念なことに3月11日の大災害により氏の話を聞く機会は奪われたが、氏は"現代詩における形と意味"というテキストを、今回の研究会のために提供して下さった。
このテキストの中では、詩の作業において、言葉自身が喋り始めるという状況、及び外部の内部への出現とその際の特異な感覚、に我々は注目した。そこには機知と同様の感覚があるように思われる。また著者は大文字の他者に向けているように思われるが、大文字の他者の承認は不確かである。この行為を倒錯的ないし精神病的とみなすべきだろうか?
芸術の場合、大文字の他者の承認は芸術についてのデイスクールによって実現されるのではないだろうか。しかし、機知と同様に、そこには規準としてのある真理があるわけではなく、ただ証人としての真理があるだけなのである。
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