2011年10月7日金曜日

シニフィアンとエクリチュール

 リチュラテール(1971)の中でラカンはおそらくデリダを意識して言っている。「草稿の中でフロイトが言っている刺激を受容した道を掘るというモデルを容認できると私が思ったとしても、だからといってエクリチュールの比喩としてそれを捉えようとは私は思わないでしょう。マジックノートには申し訳ないが、エクリチュールは印象(impression)ではない。(.....)そこで、結果としての文字を生み出すと私には思われるもの、話す者がそこに住まう、と私が言っているような言語の核心を示そうと思う。」
 そして最終的に「エクリチュールがその言語を加工している日本語」を取り上げる。日本語における特有のエクリチュールとラカンが考えているのは、それに音読みと訓読みと言う二つの読み方があるということである。音読みは文字の読みで訓読みは日本語で言おうとすることを言う読み方であるとしている。「漢字は文字であるということで、シニフィエという川を流れているシニフィアンという漂流物であるように見てしまうのは滑稽だろう。そのような文字こそが隠喩の法則に従ってシニフィアンの支えとなる。デイスクールはこの文字を見かけ(semblant)の網の目の中に捉える。こうして文字は指向対象(référent)に格上げされ、これが主体の位置づけを変える。」

( この部分は同じ内容の1971年5月12日のセミネールと異なっている。セミネールでは「それで皆さん間違えてしまうかもしれません。つまり、漢字は文字であるということで、シニフィエという川の中を流れているシニフィアンという漂流物であると私が言おうとしているのだろうと、皆さん思ってしまうでしょう。ここでシニフィアンの支えとなっているのは、シーニュではなく文字なのです。これまで私が言語の本質をなすと言ってきた隠喩の法則、何であれこれに従うもの以外のものなのです。言語が、何でも、だからエクリチュールそのものも、シニフィアンの網の目の中に捉えるというのは、言語つまりデイスクールのある所とは、いつも別のところなのです。そこにおいてのみ文字は指向対象の機能にまで格上げされ、これが主体の位置づけを変えるのです。」 )

 こうして日本人の主体の位置づけの特徴として、「基本的同一化が、単一特徴だけでなく、星をちりばめた天に基づいており、そのために「君」(tu)(2人称親称)によってしか支えられない。つまりあらゆる文法形態の極めて細かい文面が、そのシニフィエが意味している儀礼的な関係によって変化させられるような、そういう文法形態によってしか支えられない。」と言っている。
 
 デリダはフロイトの心的装置のモデルを、エクリチュールの光景として捉えたのだったが、デリダが痕跡と言っているものは、フロイト-ラカンの文脈では事物表象、あるいはシニフィアンなのではないだろうか。それでラカンも「フリースへの手紙52における Wahrnehmungszeichen 知覚表徴 は、まだ当時ソシュールが言っていなかったシニフィアンの概念に近い」と言っているのではないだろうか。つまり、デリダにおけるエクリチュールは意味と意味作用の枠で考えられており、日本語における文字によっては、意味作用の効果、特に意味作用が他者に向かって主体を生じる時の効果が、独特であるといったことは説明できないだろう。そしてデリダ自身が言っている「現象学は、間主観性の構築と時間性の運動の特異な記述によって、内部から抗議される、あるいは悩まされているように思われる。」という事態に再びはまり込むように思われる。