2011年12月24日土曜日

研究会

2010年の最初の研究会では、我々は姉歯先生の遺されたテキスト"創造性と書き換え"から始めて、フロイトのテキスト"機知、その無意識との関係"を再び見いだした。フロイトは言葉の響きと意味のどちらが(聴覚表象それ自体とその意味のどちらが)面白さの源であろうか、と問うているが、同時にこうも言っている。"良い機知というのは言わば全体的に満足の印象を与えるので、気の効いた言葉の形から来る快感と素晴らしい思考内容から生じる快感とを区別することは直ぐには出来ない。"
ラカンはクッションの綴じ目の図式を、無意識の形成物のセミネールにおいて練り上げ、機知を大文字の他者へのメッセージとして記述している。彼は意味の実在という形而上学を避けたいようである。彼は隠喩に意味の創造として価値をおき、換喩をシニフィアンの連鎖として定義している。彼によると機知という現象は大文字の他者の承認によって成就される。

フロイトやラカンが引用する多くの例は文学のテキスト、特に会話の場面から来ている。しかし例えばヒルシュヒアサントを作り出したハイネのように、著者は誰に対して書いているのか?言葉の響きについてはより意識的な産出である詩の場合、詩人は誰に対して差し向けているのか?我々はヴァンクレール氏に、詩の形態学とその意味との関係について意見を求めた。残念なことに3月11日の大災害により氏の話を聞く機会は奪われたが、氏は"現代詩における形と意味"というテキストを、今回の研究会のために提供して下さった。

このテキストの中では、詩の作業において、言葉自身が喋り始めるという状況、及び外部の内部への出現とその際の特異な感覚、に我々は注目した。そこには機知と同様の感覚があるように思われる。また著者は大文字の他者に向けているように思われるが、大文字の他者の承認は不確かである。この行為を倒錯的ないし精神病的とみなすべきだろうか?
芸術の場合、大文字の他者の承認は芸術についてのデイスクールによって実現されるのではないだろうか。しかし、機知と同様に、そこには規準としてのある真理があるわけではなく、ただ証人としての真理があるだけなのである。

疾病性と主体性

 今回の研究会では、神経症性と精神病性の抑鬱が話題となった。

精神分析では、受診者を精神病か神経症か鑑別しようと努力する。それは分析が進むと患者が、"分析家の声が聞こえる"とか"自分を誘惑しようとしている"とか言い出すことを避ける、つまり精神病が発症しないようにしようとしてである、とされている。
 古典的精神医学では、正常と異常の区別、病的であるか否か、つまり疾病性が問題になる。近代の精神医学の誕生と発展には、社会防衛と隔離という要素、及び矯正という要素が背景にあるということはフーコーも指摘している。つまり精神病者には欠陥があり、事理弁別能力が無く、社会的責任能力がないので、適切に治療し処遇して社会に適合させる、ということで、隔離と矯正が一体となって精神病院が発展したのであった。

 文献的に最も古い分裂病の記録とされているハスラムの"狂気の記述"は、革命下のフランスでスパイとして活動したのではないかと疑われ、その後結局狂人であるとしてイギリスに送り返され施設収容された、紅茶商人マシューという人物について、その家族が不当な施設収容であるとして解放を請求した訴訟において、これが狂人であり収容が妥当であることを示すための記述であった。この時代には隔離という要素が主になっていた。

 このように精神病院、あるいはそれ以前の狂人園の中に放り込まれていた雑多な集団の中から、プロセスのある病気としての疾患単位をまとめあげていったのがクレペリンのような人達であった。20世紀の初頭にそのような精神医学体系が固まってから、その疾病性を再び検討しようという動きが高まり、精神病理学が隆盛を迎える。その中で、疾病性の手前にあるもの、つまり正常な側にあるものについての概念として、ヤスパースの了解関連とシュナイダーの異常体験反応には大きな意義があった。彼らからすると、外因性のものを除く、本来の精神疾患とは分裂病と躁鬱病であるということになろう。

経済的な観点から精神医療政策が変更されて、精神病床の削減、外来診療の充実が謳われるようになって久しい。その中で、隔離収容の前提となる異常性、つまり疾病性とされていたものが重要視されなくなる。精神鑑定においても、精神医学的観点に司法的観点や世論が干渉するし、根拠の曖昧な生物学的知見が乱用されたりする。しかし病院が無くなって隔離という要素が減っても、精神医療には矯正と適合という要素がつきまとう。全ての受診者には訴えがあり困っているのだから、それは少しは異常で治療の必要がある、ということになれば患者数は莫大なものとなり、精神医療のニーズは高まっているということになる。生活苦、病苦、痴情のもつれ等の訴えに対して"あなたは病気じゃないから病院へ来なくても大丈夫です"と言うことがある精神科医はどれくらいいるだろうか。病気という概念が、疾病とか疾患ではなく、不具合とか故障と考えられている場合が多くなってくる。人間の、体はもちろん精神も、マニュアル化されたフローチャートに従って修理できるとされる。患者となった側では苦しみが取れない、自分が望むようにならないのは、全て治療が悪いせいだということになる。そこで"お薬を足しましょう"とは言わない精神科医はどれくらいいるだろうか。

こうした考えは、全てを保証してくれるはずの大文字の他者との関係についての空想から生じる。古典的な神経症的な医者患者関係では、全知全能の主人として医者が祭り上げられたり、それに踊らされたり、あてが外れて非難されたりするというのはありふれたことであった。疾病性という医学的判断が曖昧になると、医者を患者が知らない事を知っている主体と想定することは難しくなり、医者も患者も同様にアクセスできるネットやメディア上の切れ切れの知識が権威あるものになる。この場合、大文字の他者は承認してくれる他者ではなく、ただ命令し監視する者、パノプテイコンの塔の中に居ると想定されている者であり、実在の誰かに重ね合わせることができない。医者も患者も自分はマニュアルに従っているのだから治らないのはあなたが悪いと言えるのである。

 こうした混乱を避けるためには、疾病性という概念を練り直さなければならないが、それはもう既に精神分析で行われている区別、つまり精神病と神経症という区別に基づけば十分なのである。すなわち、疾病性があるのは精神病でありそれは治癒しない。神経症には疾病性は無く、医学的な治癒像として決まったものがあるわけではない。ラカンに倣って言えば、この疾病性とは父の名の排除であるということになる。だから精神病者には、まねをするかふりをするか以外の、責任能力を問えるような主体性が無いと言えるのであり、神経症者は、自分がそう思うように、自分で治ろうとすることしかできないのである。

2011年10月7日金曜日

シニフィアンとエクリチュール

 リチュラテール(1971)の中でラカンはおそらくデリダを意識して言っている。「草稿の中でフロイトが言っている刺激を受容した道を掘るというモデルを容認できると私が思ったとしても、だからといってエクリチュールの比喩としてそれを捉えようとは私は思わないでしょう。マジックノートには申し訳ないが、エクリチュールは印象(impression)ではない。(.....)そこで、結果としての文字を生み出すと私には思われるもの、話す者がそこに住まう、と私が言っているような言語の核心を示そうと思う。」
 そして最終的に「エクリチュールがその言語を加工している日本語」を取り上げる。日本語における特有のエクリチュールとラカンが考えているのは、それに音読みと訓読みと言う二つの読み方があるということである。音読みは文字の読みで訓読みは日本語で言おうとすることを言う読み方であるとしている。「漢字は文字であるということで、シニフィエという川を流れているシニフィアンという漂流物であるように見てしまうのは滑稽だろう。そのような文字こそが隠喩の法則に従ってシニフィアンの支えとなる。デイスクールはこの文字を見かけ(semblant)の網の目の中に捉える。こうして文字は指向対象(référent)に格上げされ、これが主体の位置づけを変える。」

( この部分は同じ内容の1971年5月12日のセミネールと異なっている。セミネールでは「それで皆さん間違えてしまうかもしれません。つまり、漢字は文字であるということで、シニフィエという川の中を流れているシニフィアンという漂流物であると私が言おうとしているのだろうと、皆さん思ってしまうでしょう。ここでシニフィアンの支えとなっているのは、シーニュではなく文字なのです。これまで私が言語の本質をなすと言ってきた隠喩の法則、何であれこれに従うもの以外のものなのです。言語が、何でも、だからエクリチュールそのものも、シニフィアンの網の目の中に捉えるというのは、言語つまりデイスクールのある所とは、いつも別のところなのです。そこにおいてのみ文字は指向対象の機能にまで格上げされ、これが主体の位置づけを変えるのです。」 )

 こうして日本人の主体の位置づけの特徴として、「基本的同一化が、単一特徴だけでなく、星をちりばめた天に基づいており、そのために「君」(tu)(2人称親称)によってしか支えられない。つまりあらゆる文法形態の極めて細かい文面が、そのシニフィエが意味している儀礼的な関係によって変化させられるような、そういう文法形態によってしか支えられない。」と言っている。
 
 デリダはフロイトの心的装置のモデルを、エクリチュールの光景として捉えたのだったが、デリダが痕跡と言っているものは、フロイト-ラカンの文脈では事物表象、あるいはシニフィアンなのではないだろうか。それでラカンも「フリースへの手紙52における Wahrnehmungszeichen 知覚表徴 は、まだ当時ソシュールが言っていなかったシニフィアンの概念に近い」と言っているのではないだろうか。つまり、デリダにおけるエクリチュールは意味と意味作用の枠で考えられており、日本語における文字によっては、意味作用の効果、特に意味作用が他者に向かって主体を生じる時の効果が、独特であるといったことは説明できないだろう。そしてデリダ自身が言っている「現象学は、間主観性の構築と時間性の運動の特異な記述によって、内部から抗議される、あるいは悩まされているように思われる。」という事態に再びはまり込むように思われる。
 

2011年9月13日火曜日

我無い、か、我思わない

<我思う故に我あり>というデカルトのコギトをラカンがもじったものである。全てを疑っている間はまだ確実なものは現れていないのであって、そこではたと気づいて、考えている私は確実であるということになるのであり、つまり「我が無いところで私は考える、故に、私が考えないところで我あり」とラカンは言っている。(無意識における文字の審級1957)
別のところでラカンはこれを「アクテイングアウト」(アクトは演じるという意味) acting-out と「行動への移行」(リストカット、飛び降りなど) passage à act の区別に結び付けているが、シニフィアンの意味作用という点からは「ソシュールのアルゴリズムであるシニフィアンとシニフィエは同一の平面には無いが、どこにもないその共通な軸に自分がおかれているのではないか、と人間は思い込んでしまうのである。」ともラカンは言っている。

「私が<私>と言うとき、たとえ孤独な言述の中であっても、いつものようにそこに言述の対象が不在だという可能性、ここでは私自身が不在だという可能性が常に伴うという以外の仕方で、私は私の言表に意味を与えることができるだろうか。私が私自身に「私はある」と言うとき、この表現はフッサールによるあらゆる表現と同様に、対象が、直観的な現前性が、つまりここでは私自身が不在の時にも理解できるのでなければ、言述の資格はない。そもそもそんなふうにしてエルゴスムが哲学の伝統の中に導入され、超越論的自我に関する言説が可能になるのである。」(声と現象1967)    
このように述べるデリダも、同様の観点に立っていると言える。デリダが「差延」として言っているのは、超越論的主観性のもとにあるこのずれであり、記号の観点から言うと、記号がイデア化される時の時間的なずれである。

イデアがあるということ、それが形而上学と現象学の立場であるが、精神分析では「シニフィアンの背後にシニフィエのイデアがある」とは考えない。イデア化は精神分析における意味作用ではない。精神分析ではシニフィアンが換喩の運動によって置き換えられていき、意味作用に対して抵抗を示す。「f(S....S')S=S(―)s」創造という意味作用の効果がこの置き換えの中に起こると、シニフィアンがシニフィエへと飛び越えられ、この状況が主体の位置と混同される。「f(S'/S)S=S(+)s」

しかし記号の観点からイデア化について考えるとき、必ずしも意味のことだけが問題なのではない。数学的対象、幾何学的対象などが一方にあり、フッサールの「形式論理学と超越論的論理学」に言及してデリダが挙げている、意味を備えたとされる「円は四角である」に対する「アブラカダブラ」のような、無意味とされる、詩的言語あるいは非言述的な意味作用の諸形式(音楽、非文学的芸術一般)が一方にある。そこでも物自体からイデアへの移行があるように思われる。

2011年9月4日日曜日

音楽と言語(2)

 ゲオルギアーデスは、カントの純粋時間概念と古典派音楽の純粋拍節概念は西洋精神史の中で平衡関係にある2つの転回点とみなしてさしつかえないだろう、と言っている。「古典音楽の最も優れた特徴は「現在的な行為性」ということであり、それに伴って音楽の非連続性、すなわち楽曲がそれぞれ独立した多くの小さい運動の組み合わせからできているということであった。したがってここで必然的に次のような問いが生じてくる。この絶えざる変化にもかかわらず全体を一つの統一としているものは何なのか。変化するもの、それはリズムや音の実際の姿であり、変化しないもの、それは韻律的な重点配分、すなわち拍節である。」「古典派の精神的な業績は、それまで漠然と一体をなすものと考えられてきたリズム的・個別的音的形態と韻律的重点配分を、2つの独立した別々に取り扱うべき量に区分したことにあると言えるだろう。」「ウィーン古典派は時間の区切りと時間の充填を区別するという傾向からその最終的な区別を引き出したのである。」「拍節とは精神の中でのみ統一を樹立する関連系にすぎない。しかしこのことは、手仕事と言われるもののうちにおいて可能な限りの究極的な抽象を、すなわち単なる(カント的な意味における)形式になりつくし、一切の物質的素材を脱却しつくした一つの因子を操作するという意味での抽象を意味する。」

 純粋理性批判においてカントは、「ある一定の長さを持つ時間は、いずれもその根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能」であり「全体的な時間表象は直接的な直観としてこれらの部分的表象の根底に存しなければならない」と言っているが、しかし全体を統一する基準としての時間と言うことを言っているのではない。
 カントは「時間はそれだけで存立する何かあるものではない。また客観的規定として物に付属しているような何かあるものでもないもし第一の場合が成り立つとすれば、時間は現実の対象がなくなっても現実に存在することになろう。またもし第二の場合が成り立つとすれば、時間は物そのものに付属する規定あるいは秩序であって、対象を成立せしめる条件として対象よりも前に存在しえないし、また総合的判断によってア・プリオリに認識され直観されることはできないであろう。」とか「現象(感性的直観の対象)としての一切の物は時間のうちにある」とか「時間に経験的実在性を認めながら、絶対的先験的実在性を拒むという私の理論」等と言っている。
 だから均質で均等に割り振られるような時間と言うイメージではなくて、そのようなものが現れる背景のことを言っていると考えられる。
 ここから逆に古典派の拍節概念は一つのリズムパターンを固定してしまい、幾つかのリズムパターンを重ね合わせるリズムポリフォニーの可能性を制限してしまっている、とも言える。

 カントは「時間は我々の内的状態における種々な表象の関係を規定するものである。この内的直観は形態を与えるものではない、それだから我々はこの不足を類推によって補おうとして、時間の継続を無限に進行する直線によって表象する。この空間化の比喩は、声とエクリチュールあるいは音楽と楽譜等の関係のさまざまな問題を提起する。書かれたものは前に遡ることができる。
 精神分析では、無意識に書き込まれたものが後から読まれて、前の表象が後の表象の後として見出される。「科学的心理学草稿」から「夢判断」を経て「マジックノートについての覚書」にいたるフロイトの心的装置のモデルを、エクリチュールのモデルとしてデリダは考察している。(フロイトとエクリチュールの光景)

2011年9月1日木曜日

音楽と言語

 ゲオルギアーデス著木村敏訳の「音楽と言語」は西洋音楽の歴史的発展を言語との関係において考察するためにミサ曲を中心に取り扱ったものである。
 ゲオルギアーデスによると古代ギリシア人にとって音楽は韻文の中に存在するものであり、それは音楽であると同時に言語でもあるようなひとつの現実であったという。これが崩壊して散文となり、聖書がこのギリシア語散文によって翻訳され、さらにラテン語のキリスト教典礼の礎石となったので、ヘクサメトロスにあったような言葉そのもののリズムとは違うものになった、という。
 また、グレゴリオ聖歌の Agnus Dei において dona nobis pacem と miserere nobis が同一の旋律形態を示しているのは、両者に共通なのは内容ではなく言葉の外面的様相であるところのリズムに他ならない。そのように音楽が言語の話しぶりや構造には忠実に即していながら、その意味をとらえなかったのは、ラテン語では話すこととその意味が完全には一致しないからだ、と言う。「古代ギリシア語、ラテン語、ロマン語などの諸言語においては、言葉の意味と響きが必ずしも一致するものではない。」
 「だがドイツ語の場合は事情が違っている。ドイツ語においては語られた言葉とその意味とは余すところなく一致する。言葉の意味内容は文章構造によってまわりくどく表現されるまでもなく、それ自体直接的に響きのうちに実現されている。あらゆる語句が自らに固有な、そして自らの意味によって定められた強調を伴って語られることを、断固として要求している。」としている。
 そして宗教改革においてルターが行為としてのミサを軽視したことにふれ、「ルターにとって言葉とは現在性をおびた意味内容に他ならなかった。この現在性と意味即応性こそドイツ語の本質的特徴に他ならない。形式と意味が余すところなく合致し、声に出して語られるものとしての言葉がその自律性を完全に失って意味につかえるようになったことによって、言葉は現在性の性格を獲得したのである。このような現在的性格は、言葉が音として発せられることによって初めて、いわば無から生じ、音が消えるとともに再び無に帰する。」と言う。 

 しかしここでゲオルギアーデスがあげているヘルダーリンの詩やシュッツのミサ曲などの例は音楽史学でいう象徴語法であるように思われる。つまりある音型に対して悲しみとか苦悩とかある意味をあてるという技法である。そのように意味づけられた音型にその意味を持った言葉を当てるということはできるかもしれないが、その音型がその意味を持っているとまでは言えないのではないだろうか。ソシュールであれば、それは海上標識 signaux maritimes のようなもので言語におけるシーニュ signe ではないと言うだろうし、フッサールなら指標 Anzeichen であって表現Ausdruckではないと言うだろう。
 声としての言葉と意味の関係については、声によって意味が現前するということになると、デリダの言う現前性の形而上学ということになるだろう。

 ゲオルギアーデスは現代の例として、ストラヴィンスキーのミサ曲をあげ、ストラヴィンスキーにとっては「いかにして伝統的音楽や近代語の作曲につきまとっている自我関連性や気ままさから離脱しうるかということが彼の問題だった。」ので「自らの作曲理念から出発して典礼に到達し」「正統的な言い回しという効果を喚起するような音楽を作ろう」としたのだと言う。また「彼は過去のすべての音楽から様々な可能性を拾い集めて自分のものにするという傾向を示した」がそれは「歴史的に既成のものとして残されている音楽技法を自分自身の構えに合うように翻訳し、それを今日に妥当するものとして解釈しようとする意志なのである」としている。

 このことについてはストラヴィンスキー自身が新古典主義 néoclassicisme として述べているとおりであり、そもそも彼は、ロマン派や「音楽は魂の叫びである」と言ったシェーンベルグの表現主義に対抗して、「音楽は何も表現しない」と言ったのだった。だからチャイコフスキー(妖精の接吻)やペルゴレージ(プルチネラ)からマショー(ミサ)に至る過去の技法の利用は、過去の精神の「記憶喪失」の結果なのではなくて、精神があると思っていた過去からの脱却なのである。

 精神分析的には、シニフィアンと意味のことだけでなく、「表現・表出」とか「中/外」とかトポス(場所)とでもいうしかないようなものが問題になる。フォーラムのページではnéoclassicisme の中で扱っている。

2011年8月4日木曜日

シニフィアンとは?(2)

デリダの「声と現象」(1967)は、フッサールの「論理学研究」の第1部「表現と意味」の検討であり、「記号」signeには「表現」Ausdruckと「指標」Anzeichenの二つの概念が含まれている、というフッサールの指摘から出発している。
フッサールは言語記号における外的実在を指示する指標を取り除いて、意識的・志向的な表現を取り出そうとするが、それは「言おうとする」veulent-dire記号となる。その際指標作用を取り除くために、何かを示すことを含んでしまう他人への伝達を遮断し、「孤独な心的生活」における「独白」を考える。
例えば誰かが自分自身に対して、お前はひどい振る舞いをした、もうそんなふうに振る舞い続けることはできない、と言うような場合である。」そこでは実在的な語を使わず表象された語だけを使うのであって、もはや語という経験的な出来事は必要でなく、語の想像作用しか実在せず、それは体験として絶対的に確実なものであり、自己へと現前するものであり、現象学的還元の一種である、とデリダは言っている。

また、これと関連してデリダはソシュールの一節を引いている。「我々の言う聴覚映像の心的な性格は我々自身の言語活動を観察する時にはっきり現れる。我々は唇も舌も動かさずに、自分自身に語りかけたり、心の中で一篇の詩を暗唱することができるのである。」デリダはソシュールに言及して、シニフィアンと「表現」、シニフィエと「意味」(Bedeutung)という等値性を想定することができるかもしれないと言っている。しかし「ソシュールは現象学的な配慮をしていないために聴覚映像を内的であることがその独自性であるようなある実在にしている」とも言っているがこれは言い過ぎであろう。

この本では声の見せかけのイデア性と形而上学の関連などが論じられるが、現象学全体のさまざまの問題が提起されており、上述の部分だけでも、イデア性、主観における内部と外部、人称の機能など様々な問題が提起される。精神医学の領域に引き寄せて言えば、意志的でない独語、幻聴、外部としての内部へのその位置づけなどの問題が考えられる。昨年の研究会創造性と書き換えでも一人でしゃべることが論じられた。

2011年7月31日日曜日

シニフィアンとは?

 「創造性と書き換え」というテーマの昨年の研究会では、フロイトの「機知その無意識との関係」が多く引き合いに出された。フロイトはこの本の中で「機知は何故可笑しいのか」という問題提起から発して、「機知の機制(メカニズム)」について考察し、機知の「考え」ではなく「形」が直接笑いと結びついているのだということを述べている。その際「夢判断」における「事物表象」と「言語表象」のことが念頭にあり、抑圧との関連を考えているのだが、それについてはこの本を読んで頂いて、ここではこの「形」について考えてみる。


 伝統的な言語観では「言葉の中に意味が宿る」かのように考えてしまうが、言語を純粋に観念的・精神的なものとしてとらえ、「言語とは形相であって実質ではない」と言ったのがソシュールであり、「言葉のイメージは音そのものではなく、考えと同様に心的なものである。」としている。そして「考えと聴覚映像」の関係は「水面と空気の接触において気圧変動によってできる波」とか「一枚の紙の裏と表」のように切り離すことのできないものだと言っている。この「聴覚映像と考え」を記号論の観点からシニフィアン・シニフィエと呼び、そのまとまりがシーニュであり、その結びつきは恣意的であること、それぞれが言語体系の中での他の聴覚映像や他の考えとの関係で決まっていること(差異の体系)、等を主張したことはよく知られている。
 
 精神分析の見地では、言語学のように「聴覚映像と考え」を切り離せないものとはせず、シニフィアンに対応するものは、さしあたりわからないものとして現れる。患者は自分でもそうとは知らずに嘘をつきに来ているかもしれないからである。そこで圧縮と置き換えの機制を考えたりして、他のシニフィアンとの関連をたどりながら(意味を作りながら)、無意識の主体に行き当たることになっている。そのことはおいておいて、そこで扱われるシニフィアンとは、意味の手前にあるものであり、外在的な音ではなく、観念そのものでもないが、その中間にある外在性を帯びた観念的なまとまりと考えられるということに注意を向けてみよう。

 アリストテレスは「形而上学」の中で難問(アポリア)の一つとして、形相(エイドス)実質(ヒュレー)について述べながら、その間に形姿(モルフェー)を考えることができるだろうかと問うている。「感覚的な実体のみが存在すると主張さるべきか、このほかにも別の実体が存在するとするべきか。例えばエイドスを説く人々がエイドスのほかに中間のものが存在すると言っているように、そしてこの中間のものとは、彼らの言うところでは数学的諸学の諸対象のことなのである。」
 シニフィアンをこのようなものとして考えることができるような場合があるだろうか。

 再び言語学に戻って、差異の体系としての言語についてソシュールが挙げている例を見てみよう。
「考え」については例えば、羊は仏語で mouton 英語で sheep だが食卓に出されるのは英語では mutton であるなど、各言語体系内でそれぞれの「考え」の「差異」によって決まる「価値」が違う。
「聴覚映像」については例えば、r を巻き舌で発音(rouler)しても喉を鳴らして発音(grasseyer)しても仏語では通じるが独語ではch (Bach, doch等)を r では発音できないなど、やはり「聴覚映像」の「差異」によって決まる「価値」が異なる。
ここでソシュールは差異の体系として「書かれたシニフィアン」の例として、様々な書体で書かれた t の文字を挙げ、どのように書かれても l やd と区別される限りにおいて価値があるのだと言う。
しかしどのように書かれてもそれは t だという「同一性」があるということを考えなければならないだろう。 
 言語における共時的同一性とは何か、つまりある語や句が様々な文に出てきてもそれを同じと考えるのはどのようにか、ということについて、ソシュールは「夜8時45分ジュネーヴ発パリ行特急」のようなものだと言っている。つまり車体が違ってもそれと言えるような「同一性」のことである。
またチエスの駒のナイトが壊れたりなくなったりして代わりのものを使ったとしても、チエスの規則という他の駒との「差異」の体系の中では同一の「価値」を持つ。(ここで同一性と価値は混ざり合っていく)

 1962年のセミネールでラカンは、さいころの目の ⠶ と ⢕ や ⡇は動物にはどれも4であるというようには考えられないこと、ヒエログリフのミミズクは否定と関連したmの音で読まれるもので表意ではないこと、等に言及しながら、 A=A とすることで取り除かれてしまうものについて考えている。
研究会で問題になった漢字と日本語のことは、日本語の歴史的な発展の考察の前に、無意識における文字の機能のことをまず考えなければならないが、そのあたりの背景としてここで述べたようなことがある。


< コメントを書くには下の コメント をクリックして下さい>