2011年9月4日日曜日

音楽と言語(2)

 ゲオルギアーデスは、カントの純粋時間概念と古典派音楽の純粋拍節概念は西洋精神史の中で平衡関係にある2つの転回点とみなしてさしつかえないだろう、と言っている。「古典音楽の最も優れた特徴は「現在的な行為性」ということであり、それに伴って音楽の非連続性、すなわち楽曲がそれぞれ独立した多くの小さい運動の組み合わせからできているということであった。したがってここで必然的に次のような問いが生じてくる。この絶えざる変化にもかかわらず全体を一つの統一としているものは何なのか。変化するもの、それはリズムや音の実際の姿であり、変化しないもの、それは韻律的な重点配分、すなわち拍節である。」「古典派の精神的な業績は、それまで漠然と一体をなすものと考えられてきたリズム的・個別的音的形態と韻律的重点配分を、2つの独立した別々に取り扱うべき量に区分したことにあると言えるだろう。」「ウィーン古典派は時間の区切りと時間の充填を区別するという傾向からその最終的な区別を引き出したのである。」「拍節とは精神の中でのみ統一を樹立する関連系にすぎない。しかしこのことは、手仕事と言われるもののうちにおいて可能な限りの究極的な抽象を、すなわち単なる(カント的な意味における)形式になりつくし、一切の物質的素材を脱却しつくした一つの因子を操作するという意味での抽象を意味する。」

 純粋理性批判においてカントは、「ある一定の長さを持つ時間は、いずれもその根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能」であり「全体的な時間表象は直接的な直観としてこれらの部分的表象の根底に存しなければならない」と言っているが、しかし全体を統一する基準としての時間と言うことを言っているのではない。
 カントは「時間はそれだけで存立する何かあるものではない。また客観的規定として物に付属しているような何かあるものでもないもし第一の場合が成り立つとすれば、時間は現実の対象がなくなっても現実に存在することになろう。またもし第二の場合が成り立つとすれば、時間は物そのものに付属する規定あるいは秩序であって、対象を成立せしめる条件として対象よりも前に存在しえないし、また総合的判断によってア・プリオリに認識され直観されることはできないであろう。」とか「現象(感性的直観の対象)としての一切の物は時間のうちにある」とか「時間に経験的実在性を認めながら、絶対的先験的実在性を拒むという私の理論」等と言っている。
 だから均質で均等に割り振られるような時間と言うイメージではなくて、そのようなものが現れる背景のことを言っていると考えられる。
 ここから逆に古典派の拍節概念は一つのリズムパターンを固定してしまい、幾つかのリズムパターンを重ね合わせるリズムポリフォニーの可能性を制限してしまっている、とも言える。

 カントは「時間は我々の内的状態における種々な表象の関係を規定するものである。この内的直観は形態を与えるものではない、それだから我々はこの不足を類推によって補おうとして、時間の継続を無限に進行する直線によって表象する。この空間化の比喩は、声とエクリチュールあるいは音楽と楽譜等の関係のさまざまな問題を提起する。書かれたものは前に遡ることができる。
 精神分析では、無意識に書き込まれたものが後から読まれて、前の表象が後の表象の後として見出される。「科学的心理学草稿」から「夢判断」を経て「マジックノートについての覚書」にいたるフロイトの心的装置のモデルを、エクリチュールのモデルとしてデリダは考察している。(フロイトとエクリチュールの光景)

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