2011年9月1日木曜日

音楽と言語

 ゲオルギアーデス著木村敏訳の「音楽と言語」は西洋音楽の歴史的発展を言語との関係において考察するためにミサ曲を中心に取り扱ったものである。
 ゲオルギアーデスによると古代ギリシア人にとって音楽は韻文の中に存在するものであり、それは音楽であると同時に言語でもあるようなひとつの現実であったという。これが崩壊して散文となり、聖書がこのギリシア語散文によって翻訳され、さらにラテン語のキリスト教典礼の礎石となったので、ヘクサメトロスにあったような言葉そのもののリズムとは違うものになった、という。
 また、グレゴリオ聖歌の Agnus Dei において dona nobis pacem と miserere nobis が同一の旋律形態を示しているのは、両者に共通なのは内容ではなく言葉の外面的様相であるところのリズムに他ならない。そのように音楽が言語の話しぶりや構造には忠実に即していながら、その意味をとらえなかったのは、ラテン語では話すこととその意味が完全には一致しないからだ、と言う。「古代ギリシア語、ラテン語、ロマン語などの諸言語においては、言葉の意味と響きが必ずしも一致するものではない。」
 「だがドイツ語の場合は事情が違っている。ドイツ語においては語られた言葉とその意味とは余すところなく一致する。言葉の意味内容は文章構造によってまわりくどく表現されるまでもなく、それ自体直接的に響きのうちに実現されている。あらゆる語句が自らに固有な、そして自らの意味によって定められた強調を伴って語られることを、断固として要求している。」としている。
 そして宗教改革においてルターが行為としてのミサを軽視したことにふれ、「ルターにとって言葉とは現在性をおびた意味内容に他ならなかった。この現在性と意味即応性こそドイツ語の本質的特徴に他ならない。形式と意味が余すところなく合致し、声に出して語られるものとしての言葉がその自律性を完全に失って意味につかえるようになったことによって、言葉は現在性の性格を獲得したのである。このような現在的性格は、言葉が音として発せられることによって初めて、いわば無から生じ、音が消えるとともに再び無に帰する。」と言う。 

 しかしここでゲオルギアーデスがあげているヘルダーリンの詩やシュッツのミサ曲などの例は音楽史学でいう象徴語法であるように思われる。つまりある音型に対して悲しみとか苦悩とかある意味をあてるという技法である。そのように意味づけられた音型にその意味を持った言葉を当てるということはできるかもしれないが、その音型がその意味を持っているとまでは言えないのではないだろうか。ソシュールであれば、それは海上標識 signaux maritimes のようなもので言語におけるシーニュ signe ではないと言うだろうし、フッサールなら指標 Anzeichen であって表現Ausdruckではないと言うだろう。
 声としての言葉と意味の関係については、声によって意味が現前するということになると、デリダの言う現前性の形而上学ということになるだろう。

 ゲオルギアーデスは現代の例として、ストラヴィンスキーのミサ曲をあげ、ストラヴィンスキーにとっては「いかにして伝統的音楽や近代語の作曲につきまとっている自我関連性や気ままさから離脱しうるかということが彼の問題だった。」ので「自らの作曲理念から出発して典礼に到達し」「正統的な言い回しという効果を喚起するような音楽を作ろう」としたのだと言う。また「彼は過去のすべての音楽から様々な可能性を拾い集めて自分のものにするという傾向を示した」がそれは「歴史的に既成のものとして残されている音楽技法を自分自身の構えに合うように翻訳し、それを今日に妥当するものとして解釈しようとする意志なのである」としている。

 このことについてはストラヴィンスキー自身が新古典主義 néoclassicisme として述べているとおりであり、そもそも彼は、ロマン派や「音楽は魂の叫びである」と言ったシェーンベルグの表現主義に対抗して、「音楽は何も表現しない」と言ったのだった。だからチャイコフスキー(妖精の接吻)やペルゴレージ(プルチネラ)からマショー(ミサ)に至る過去の技法の利用は、過去の精神の「記憶喪失」の結果なのではなくて、精神があると思っていた過去からの脱却なのである。

 精神分析的には、シニフィアンと意味のことだけでなく、「表現・表出」とか「中/外」とかトポス(場所)とでもいうしかないようなものが問題になる。フォーラムのページではnéoclassicisme の中で扱っている。

2 件のコメント:

  1. 歌詞を先にしてそれにいかに音を当てるか、という思索パターンの中にゲオルギアデスはいると思います。そして、なされた特定の象徴化が妥当かどうかではなく、作曲に際して象徴化による意味づけの意図が実現できない、不成功にならざるを得ない、というギリシャ語やラテン語の言語状況があるということを訴えているでしょうね。

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  2. シュッツのミサもドイツ語に翻訳された歌詞に音楽を「当てる」ということをしていると思うのですが、ドイツ語につけられた音楽には「意味づけ」ができるのでしょうか?
    ゲオルギアーデスは音楽と言語が一つであったのは韻文ギリシャ語(ヘクサメトロス)の朗読と考えているようです。しかしドイツ詩の朗読が音楽として扱われたことがあったことはないようですし、もちろんルターのコラールは朗読ではありません。
    ここでは音楽は言語のようには「意味」を生じさせないということを言いたかったのです。

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