2011年9月13日火曜日

我無い、か、我思わない

<我思う故に我あり>というデカルトのコギトをラカンがもじったものである。全てを疑っている間はまだ確実なものは現れていないのであって、そこではたと気づいて、考えている私は確実であるということになるのであり、つまり「我が無いところで私は考える、故に、私が考えないところで我あり」とラカンは言っている。(無意識における文字の審級1957)
別のところでラカンはこれを「アクテイングアウト」(アクトは演じるという意味) acting-out と「行動への移行」(リストカット、飛び降りなど) passage à act の区別に結び付けているが、シニフィアンの意味作用という点からは「ソシュールのアルゴリズムであるシニフィアンとシニフィエは同一の平面には無いが、どこにもないその共通な軸に自分がおかれているのではないか、と人間は思い込んでしまうのである。」ともラカンは言っている。

「私が<私>と言うとき、たとえ孤独な言述の中であっても、いつものようにそこに言述の対象が不在だという可能性、ここでは私自身が不在だという可能性が常に伴うという以外の仕方で、私は私の言表に意味を与えることができるだろうか。私が私自身に「私はある」と言うとき、この表現はフッサールによるあらゆる表現と同様に、対象が、直観的な現前性が、つまりここでは私自身が不在の時にも理解できるのでなければ、言述の資格はない。そもそもそんなふうにしてエルゴスムが哲学の伝統の中に導入され、超越論的自我に関する言説が可能になるのである。」(声と現象1967)    
このように述べるデリダも、同様の観点に立っていると言える。デリダが「差延」として言っているのは、超越論的主観性のもとにあるこのずれであり、記号の観点から言うと、記号がイデア化される時の時間的なずれである。

イデアがあるということ、それが形而上学と現象学の立場であるが、精神分析では「シニフィアンの背後にシニフィエのイデアがある」とは考えない。イデア化は精神分析における意味作用ではない。精神分析ではシニフィアンが換喩の運動によって置き換えられていき、意味作用に対して抵抗を示す。「f(S....S')S=S(―)s」創造という意味作用の効果がこの置き換えの中に起こると、シニフィアンがシニフィエへと飛び越えられ、この状況が主体の位置と混同される。「f(S'/S)S=S(+)s」

しかし記号の観点からイデア化について考えるとき、必ずしも意味のことだけが問題なのではない。数学的対象、幾何学的対象などが一方にあり、フッサールの「形式論理学と超越論的論理学」に言及してデリダが挙げている、意味を備えたとされる「円は四角である」に対する「アブラカダブラ」のような、無意味とされる、詩的言語あるいは非言述的な意味作用の諸形式(音楽、非文学的芸術一般)が一方にある。そこでも物自体からイデアへの移行があるように思われる。

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