2012年3月5日月曜日

精神と体操

精神医学という言葉が大学医学部の講座名に使われなくなり、認知とか脳神経とか情報処理とかの言葉が入るようになって久しい。たとえそこに社会とか発達という言葉が入っても、個物としての人間がどのように機能するかという視点だけでは、サリヴァンが言ったような"精神医学は対人関係の学である"というような側面は見えてこない。
処理機能という観点を押し進めていくと、精神の働きとは体の動きのようなものと見なされる。体の動きがコントロールできるように、精神の働きもコントロールできるので、それを治療に結びつけようということで、認知行動療法などが考案される。つまり精神の体操である。gymnastique という言葉には、体育、体操の他に、精神的、知的訓練という意味があり、コントロールする側の主意的な行為に力点があり、対象となっているのは、精神あるいは身体としての自己である。しかしそこで精神とされている方の物は、言葉で捉えられた物を他の言葉で置き換えているにすぎない。

一方、体操においては身体という物質性があるように見えるが、はたしてそれが体操の本質なのだろうか?スポ-ツ運動学という分野では、動きのコツとか勘とか言ったものを捉えて体操指導に生かすために、キネステーゼという概念が提唱されている。これはフッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」において述べたものを発展させたものである。運動を実践している者の主観においては、いわゆるスポーツ科学が捉える客観的な身体ではなく、意識が捉える運動感覚が重要であるということである。

フッサールはもちろんカントの「純粋理性批判」を意識しており、カントにはガリレオ、デカルト以来の自然科学的な「エゴ」が残っていて、先験的感性論における直観の形式としての時間と空間は、自然科学的客観主義に汚染されている、と批判したいようだ。しかしそこで持ち出される「生活世界」という言葉は素朴な認識と誤解され易いように思われ、「ego」の手前の「Ich」という言い方の方が本質をついているように思われる。

精神分析的にはこのエゴは視像であり、科学的合理的デイスクールの基盤であって、「我あり」と思っている者(Ich)こそが、無意識の主体、棒を引かれた主体なのである。そのような主体は一種の空間、場所(トポス)なのであって、そこにおいて主観と対象が構成される。精神分析が哲学と決定的に異なるのは、ここに認識論的にはたどりつけない言語の役割を強調することである。カントの形象的総合(synthsis speciosa)はラカン的に言えば統一性 Einheit であり、言語の始まりとなる単一性 Einzigkeit とは異なっている。注)

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